オーストラリア辞典
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Chisholm (nee Jones), Caroline

チザム(旧姓ジョーンズ)、カロライン


1808-1877
ノーサンプトン、ノーサンプトンシア、イングランド生まれ。
福祉・慈善活動家


 19世紀中葉の女性移民に対する援助活動で名高い。その活動は、移民の選択から定住まで移民に関するほぼすべての領域にわたる。19世紀に公的な領域において活動できた数少ない女性である。オーストラリアの女性としては最も有名な人物の1人で、その肖像は旧5ドル紙幣に用いられた。

 福音主義の環境で育ったが、22歳で東インド会社の将校、アーチボルド・チザムと結婚。カトリックに改宗する。夫の赴任地マドラスでは、ヨーロッパ人兵士の子女のために学校を設立する。オーストラリアには、1838年に移住し、3人の息子とともにウィンザーに定着する。1840年夫がアヘン戦争に召集されると、彼女は貧しい移民たちの救済に精力を注ぐようになり、1841年には総督ギップスの援助を受けて、移民の家をシドニーに開設した。さらに移民の雇用にも関心を向け、1842-46年にかけては、多数の女性移民(10,000人を越えるといわれる)を、自らの手でニューサウスウェールズの内陸部に運び、職を見つけ定着させた。1845年には、夫も退役し、カロラインの活動を助けるようになる。彼女の献身的な活動は、植民地ではすでに伝説のようになっていたが、そのカトリック信仰と移民の援助が主にアイルランド人に向けられたこともあり、プレスビタリアンの牧師、ジョン・ダンモア・ラングの非難を浴びるなど、宗派闘争に巻き込まれた。

 カロラインはオーストラリア社会を文明化するためには、「神の警察」としての妻と子供が必要であると主張し、家族移民を推進することを目的に、1846-54年にはイングランドに戻った。ロンドンでは、グレイ伯爵やジェームズ・スティーヴンの信頼を得て、貴族院の特別委員会で2度にわたり証言した。当時女性がこのような場で証言するのは極めてまれなことであった。1849年、オーストラリアへの移民の推進のために、非政府組織として家族移民ローン協会を設立し、3,000人以上の移民を送り出した。彼女は多くの支持者を獲得したが、その中にはチャールズ・ディケンズもいた。ディケンズの小説には彼女と移民協会をモデルとするものもある。

 1854年にオーストラリアに帰国すると、ヴィクトリア植民地議会上院は、その功績に対し5,000ポンドをチズルム夫妻に支払うことを決め、民間の寄付も2,500ポンドに達した。カロラインはヴィクトリアの金鉱地帯を視察し、金鉱までの宿泊地の整備などを提言し、実現した。しかし、その後は、腎臓病を患い、金銭的な問題もあり、活発に移民援助活動を行うことはなくなった。晩年の講演では、土地の解放、普通選挙、秘密投票制、議員報酬制など、当時としては急進的な意見を述べることが多かった。1866年、チズルム夫妻はイングランドに戻り、慎ましい年金生活に入った。カロラインは、1877年3月25日ロンドンで死亡した。夫も同年8月に死亡している。墓碑には「移民の友」と刻まれている。

 日本語の文献では、しばしば、チザルム、チスホルム、チショムなどとして現れる場合がある。

 藤川隆男0303