Chifley, Joseph Benedict
チフリー、ジョゼフ・ベネディクト
1885-1951
バサースト、ニューサウスウェールズ生まれ。
連邦首相(1945-49)
労働党に属し、戦後最初の首相(1945-49)となった人物である。1945年に彼が演説で述べた「丘の上の光」を目指し、完全雇用の実現でオーストラリアに前例の無い繁栄をもたらした。また首相以外にも、戦後再興大臣、通貨および銀行改革に関する王立委員会等多くの役職を経験している。
15歳のときに学校を卒業し、その後労働党に惹きつけられていくことになる。1903年にニューサウスウェールズ鉄道に入り、1914年に機関車運転士になった。また同じ年にエリザベス・マッケンジーと結婚した。彼は組合活動に積極的に参加し、1917年の大規模なストライキ中に解雇され、再雇用の際に降格された。
1928年の連邦選挙で、バサースト中央に位置するマクウォリーで議席を獲得して、労働党の下院議員となり、1931年3月にスカリン政府のもとで国防大臣に就任した。しかし同年12月の労働党の分裂とともに失脚することになる。その後、1934年6月に彼は連邦労働党のニューサウスウェールズ州代表となる。徐々に連邦労働党の力は回復していったが、ニューサウスウェールズでは1940年になっても党内の3派が選挙を争った。彼はまた1936年から1937年の間、通貨および銀行改革に関する王立調査委員会に属し、その報告の中で、金融政策に関する政府の責任を強調し、全銀行の国有化を唱え、民間銀行を批判した。
1940年の選挙で彼はマクウォリーの議席を再び獲得した。1941年にカーティン労働党内閣の大蔵大臣を務め(1949年まで)、また1942年12月から戦後再興大臣も同時に務めた(1945年まで)。彼はそこで財政をうまくコントロールしインフレをある程度抑制することに成功した。また1945年には、連邦政府が銀行をコントロールできるようにする2法案を提出した。
1945年7月にカーティンが死去し、後を継いで彼が首相になった。1946年の労働党の選挙での勝利の後、完全雇用の実現、社会福祉の充実に尽力した。トランス・オーストラリア・エアラインズ(TAA)を設立し(1946年)、カンタス航空を完全に国有化した。またスノーウィー・マウンテンズ水力発電計画を正式に認可した(1949年)。選挙制度にも手を加え、上院(36から60へ)および下院(74から121へ)の増員、そして上院選挙を比例代表制にした。さらに戦後移民計画を奨励し、非イギリス系の人々が多数オーストラリアに移民した。
しかし、1948年頃から問題が生じ始めた。ガソリン配給制の維持など戦時統制経済への執着、1949年6月から8月の炭鉱ストライキ等で徐々に支持を失った。そして銀行の国有化の試みが決定的となり、1949年の選挙で労働党は敗北し、首相の座を退いた。
その後野党のリーダーとして、メンジーズ首相の共産党解散法案を批判したりしたが、1951年、オフィスで働いている最中死亡した。それはちょうど連邦50周年を祝う舞踏会がキングス・ホールで行われている最中のことだった。
清水寿夫00