Catholic Church
カトリック教会
囚人の少なくとも1割以上がカトリックであったにもかかわらず、1820年までは、囚人に含まれていたカトリックの聖職者や、非公式に植民地を訪れた聖職者を除いて、カトリックの聖職者はおらず、植民地政府の承認も受けていなかった。この年、2人の司祭が任命され、植民地政府が公式にカトリックを公認するようになった。1829年には本国でカトリック解放法が成立し、カトリック人口は1830年には15,000人になった。1833年にはW.B.アラソーンが、オーストラリア教会最初の司教総代理に任命され、ハイエラーキーが確立した。1833年にはジョン・ポウルディングが司教となった。1836年には教会法が成立し、植民地政府の援助を受けられるようになり、カトリック教会の植民地におけるステイタスは確立した。
初期のカトリックの指導者であったアラソーンもポウルディングもイングランドのベネディクト派の聖職者であった。ところが、1840年代から1850年代のカトリックの移民は主にアイルランド人で、イングランド系の支配に対しアイリッシュ・スタイルの教会を作る運動が精力的に行われた。1860年代までに、ベネディクト派の勢力は弱まり、アイリッシュ・スタイルの教会政策がとられるようになった。
1860年代から1870年代には、カトリック教会は教育に関する議論にも精力的に参加し、教育の世俗化に強く反対した。そして、カトリック教会は、公教育法に反発して、修道士などを教員とする独立した教育システムを確立した。1960年代にまでいたる独自のカトリック教育システムの一定の成長は、特有のカトリック文化に大きな原因がある。
カトリック信者は、オーストラリア社会において、一般的に社会的・経済的に低い地位に置かれてきた。他方、労働党への強い支持など、オーストラリアの政治において重要な位置をしめてきた。最近では、妊娠中絶のような道徳的問題にも積極的に発言を行っている。
カトリックは、1981年の時点で人口の26%を占めており、南東部の州と首都に比較的多い。戦後の東南ヨーロッパからの移民は、カトリック教会の内部構成を大きく変え、教会のアイリッシュ支配は弱まった。現在カトリックは、イギリス国教会を抜き、オーストラリアで最大の信徒を有する教派となっている。
山崎雅子00