オーストラリア辞典
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Castle Hill Uprising

キャッスル・ヒルの反乱、カースル・ヒルの反乱



 ニューサウスウェーズにおける、最大規模かつ最も有名な囚人反乱は、1804年3月4日シドニー北西のキャッスル・ヒル地域で起こった。多数のアイルランド人が関わったことからアイルランド人の反乱と言われることもあるが、おそらくこの反乱はアイルランド人のイングランド人への伝統的な抵抗以上のものを表している。すなわち、強制労働と屈辱から生じた植民地での憤慨も重要な要素であったと考えられる。しかしながら、アイルランドでの1798年のユナイテッド・アイリッシュマンの反乱に関わった者が流刑にされてから、アイルランド人の囚人数は増加しており、彼らの影響は間違いなく大きかった。1798年のアイルランドでの反乱の場所にちなみ、植民地当局が反乱の主力部隊を倒した場所は、ヴィネガー・ヒル(ヴィニーガ・ヒル)Vinegar Hill(現在のラウス・ヒルRouse Hillも昔はこう呼ばれていた)と呼ばれた。ここは現在ベルヴェー・ヒルBelleview Hillと呼ばれている。

 1804年2月中に反乱の計画が立てられたようであり、計画に基づいてウイリアム・ジョンストンWilliam Johnstonやフィリップ・カニンガムPhilip Cunninghamといった囚人の指導者は、キャッスル・ヒルで囚人を集め、パラマッタまで進軍しようとした。前年キング総督の命令により、囚人を監督する駐屯軍が撤退したことから、キャッスル・ヒルは最も適した反乱の開始地点となった。3月5日の夜明け近く、盗んだ銃と間に合わせの武器で武装した約350人の囚人がパラマッタに集結した。ユナイテッド・アイリッシュマンのスローガン「死か自由か」を叫びながら、ヨーロッパへ戻る船を要求した。植民地政府側の報復を恐れ、反乱軍から離れた者もいたが、大部分はホークスバリーで他の囚人からの支援を集めるため先へ進んだ。ジョージ・ジョンストン少佐指揮下のニューサウスウェールズ軍団は、トゥーンギャビーToongabbieの近くで反乱軍に追いついた。2つの降伏の要求が拒否された後、少佐は攻撃を命じ、9人を殺した。降伏要求の1つは、キング総督が軍団とともに送った。囚人のカトリック聖職者ジェームス・ディクソンJames Dixonからの要求であったが、反乱軍はこれを受け入れなかった。結局15人の死者を出して、反乱は終わった。キング総督は3月5日から10日まで戒厳令を出した。カニンガムをはじめ9人が絞首刑となり、多くが鞭打ちの刑に処された。また30人以上がコール・リヴァー(ニューカッスル)などへ送られた。この反乱によって、オーストラリアのエスタブリッシュメントのアイルランド系カトリックに対する不信感は強まり、他方アイルランド系カトリックはこの反乱を、抑圧された者による自由を求める最初の戦いであると考えるようになった。

 中西雅子00