Bushranging
ブッシュレンジング、オーストラリアの山賊・盗賊行為、ブッシュレンジャー
ほぼ100年間にわたる初期オーストラリアの生活の特徴の1つだが、植民地における状況の変化に応じてブッシュレンジングも変化した。その第1段階は、ほぼ19世紀中葉まで続くのだが、逃亡した囚人を主体とするものだった。彼らは入植地の多くが孤立していることを利用し、他者の財産を略奪して生活の糧とした。彼らはコンヴィクト・ボルターbolter(逃亡囚人)とも呼ばれ、拘留地から逃げ出し、辺境の地域に隠れ、定住地に略奪に入った。時には、植民地から逃げ出すことを企んで船を盗んだり、密航者になった者もいた。
1820年代から1840年代にかけて、本来の入植地境界線を越えて入植地が広がり始めたとき、彼らの活動は盛んになった。シドニーにおける初期の大胆不敵で強力なブッシュレンジャーの1人が、ジャック・ドナフーJack Donohoeである。彼は1827年から1830年にかけて活躍し、あらゆる権力と戦い、警察との銃撃戦の末死んだ。ハンター地区には1830年代末に、「ユダヤの少年」という名のギャング団がいた。タスマニアには1820年代にブレイディBrady一味、1840年代にはマーティン・キャッシュMartin Cashという有名なブッシュレンジャーがいた。
初期のブッシュレンジャーに対する対策は、追跡や巡回が困難な環境を克服しなければならなかった。同時に植民の拡大や、牧畜産業の成長は、社会的弱者の経済的喪失感に油を注ぎ、ブッシュレンジングに頼る傾向を生んだ。1830年代から1840年代にかけてのべ500人の囚人が逃げ出したという統計もある。
初期のブッシュレンジングが流刑に関係した一方、およそ1850年から1870年にかけての第2期は金に関係している。オーストラリアにおける伝説としてのブッシュレンジングは、この時から始まる。無鉄砲な乱暴者が馬にまたがり、金銀や家畜を求めて、村落や農場を襲撃した。警察の不足と金鉱への殺到により起った法や秩序の混乱を利用して、ブッシュレンジャーは派手な強奪を繰り返した。フランク・ガーディナーFrank Gardinerとベン・ホールBen Hallはフォーブズ地区にいたが、マッド・モーガンはそれより南の方で活動した。1860年代にニューサウスウェールズ北部の広大な地域を荒した、キャプテン・サンダーボルトCaptain Thunderboltは、この時期の最も有名なブッシュレンジャーであった。
1870年代の終りごろ、ブッシュレンジングの最終段階がやってきた。短い期間ではあったが、忘れがたいクライマックスが、ケリー一味により演じられた。1880年のネッド・ケリーNed Kellyの処刑と、キャプテン・ムーンライトCaptain Moonliteによるヴィクトリアでの最後の悪業で、ブッシュレンジングの時代は事実上終りを告げた。その後ブッシュレンジャーについての伝説は、ネッド・ケリーを中心に語り継がれることになる。
見国祐也00