Burra
バラ
南オーストラリア南東部、アデレイドの北156キロに位置する。
人口:1,008(1996)、1,191(1991)、1,222(1981)、1,725(1933)、177(1911)、1,994(1901)、4,347(1861)。
Burra Burraと書かれる場合もある。
地名の由来については、この地方にいたクーリーが使っていたヒンドゥー語で‘great, great’を意味する‘burra burra’に由来するという説や、「早い」や「ひざ」という意味のアボリジナルの言葉に由来するという説など、いくつかの説があり、長年論争が行われてきた。最初にクリークにこの名が用いられ、後に鉱山が命名された。この地域はNgadjuriのアボリジナルの居住地であった。1845年、羊飼いによって銅の鉱脈が発見され、その年末にバラ鉱山が開山した。ボン・アコード鉱山が1846年に開山し、1866年に閉山した。 1846年、オーストラリアで最初の企業町クーリンガKooringaが、南オーストラリア鉱業組合によって計画され、鉱山労働者のための小さな集合住宅や会社が経営するホテルが建造された。行政都市のレッドルースRedruthが1849年に設立され、「小コーンウォール」と呼ばれるようになった。 1840年代には人口が約5,000人を超え、1851年までには、アデレイドを除けば、南オーストラリアで最も大規模な都市となった。
1870年までに、前出のクーリンガ、レッドルースに加え、バラ・ノース、アバディーン、コッパーハウス、ハンプトン、ルクサーLlwchyrの7つの入植地がまとめて「バラ」と呼ばれるようになった。 1849年に精錬所が設立された。バラ鉱山からは1877年の閉山までに、価格にして500万ポンドの銅が採掘された。好況期には、1,500を超える人々が、会社に地代を払わずに小川沿いの洞窟で生活していた。これらの洞窟のほとんどは1850年代の洪水で破壊されたが、2つが保存されている。パクストン・スクウェア・コテージ(2部屋の長家が33軒集まった鉱山労働者用の集合住宅)が1849年から50年にかけて建設され、現在も修復されて存在する。旧郵便局、旧電信局が1860年に建てられた。レッドルース刑務所が1856年に建設された。バラ・ノース裁判所は1857年に開設された。 1862年、ジョン・マクダウアル・スチュアートはこの町でオーストラリア縦断探検を終え、アデレイドへと電報を送った。プリンセス・ロイアル農場が1864年に設立された。鉄道は1870年に開通した。鉱山が閉鎖された1877年以降、町は農業地域のサーヴィス・センターになった。1972年以降、残存する低品位の鉱石から酸化第2銅の採鉱が行われている。バラ鉱山跡は1947年に修復され、オーストラリアで最も古い鉱山施設である火薬倉庫や、ポンプ室、立抗が残っている。旧鉱山跡やその他多くの施設が観光客に開放されており、休日にはアデレイドなどから観光客が訪れる。1994年には町全体が州の歴史遺産に指定された。
津田博司0701