Bunyip Aristocracy
バニヤップ貴族階級
1853年、新しい憲法を作るにあたって、W.C.ウェントワースが議長を務めるニューサウスウェールズの立憲評議会において、新しく世襲貴族階級を作り、彼らによる「貴族院」を作ろうとする動きが生じた。
19世紀の前半においてニューサウスウェールズでは2つの階級が対立していた。片方はイクスクルーシヴズexclusivesという、資本家や軍人たちとその子孫たちである。もう片方はエマンシピストemancipistsという、囚人やその家族、あるいは仕事を求めて渡来した労働者たちであり、彼らはイクスクルーシヴズから政治への参加を拒否されていた。
1842年に初めての立法評議会の選挙が行われるころになると、イクスクルーシヴズとエマンシピストの対立は弱まり、広大な土地を所有あるいは賃借するスクオッターと呼ばれる支配層が形成され、立法評議会を支配するようになった。議員は無報酬であり、政治への参加は一種の贅沢であり、被選挙権も彼らに独占されていた。豊かなエマンシピストも支配層に合流し、牧羊業者を中心とする保守派の支配を生み出した。シドニーの選挙区でリベラル派がわずかながら議席を得た他は、各地の議席は保守派によって占められていた。エマンシピストの指導者であったウェントワースもこの保守的な勢力に合流すると同時に、その指導者になった。
しかし、オーストラリアにおける自由主義的改革の波は高まっていた。改革の進展を阻もうと考えたウェントワースは、何か代案を搾り出さなければならなかった。そこで彼が考えたのが世襲貴族の出身者から構成される議会を作ることであった。彼はイギリスの議会を理想としていた。当初、貴族はすべて上院議員になる予定であったが、後には数も膨大になると予想されたので、上院議員選挙団を作ることになった。こうして上院は民主的な下院に対する防波堤になるはずであった。しかし世襲貴族制の提案は強い反発を引き起こした。『エンパイア』紙は、ウェントワースはもうろくしており、彼のやっていることは20年時代遅れだと批判した。保守系の『シドニー・モーニング・ヘラルド』さえ批判的であった。このことは、植民地の准男爵というアイデアが、尊敬よりも嘲りの対象になったことを示している。やがて世襲貴族制計画は、前衛詩人チャールズ・ハーパCharles Harpurや、若手政治評論家ダニエル・デナヒーDaniel Deniehyの、批判や揶揄の的となった。チャールズ・ハーパーは、疑いもなく貴族である証拠は、「巨大な鼻、太って強靭で、象のような背中、ウェリントン島のドードーのように大きな上顎」であると皮肉った。 1953年8月15日、ダニエル・デナヒーはヴィクトリア劇場で開かれた集会の中ではじめて公式に演説し、その中で世襲貴族を「ボタニー・ベイ貴族」や「バニヤップ貴族階級」という表現で批判した。バニヤップとはオーストラリアの空想上の怪物である。『シドニー・モーニング・ヘラルド』が認めたように、皮肉は非常に強力な武器だった。
左近幸村・藤川隆男1015