Bruce, Stanley Melbourne
ブルース、スタンリ(スタンリー)・メルボルン
1883-1967
セント・キルダ、ヴィクトリア生まれ。
連邦首相(1923-29)、外交官。
1923年から29年まで連邦首相をつとめ、その後は国際連盟などで外交官として活躍した。
輸入会社パターソン・レイング・ブルースの経営者を父にもつブルースは、名門のメルボルン・グラマー・スクールで教育を受け、父の会社で働きながらケンブリッジ大学への留学も果たした。こうした経歴は、ブルースに、生涯、イギリス的なエリート意識をうえつけることとなった。第1次世界大戦では将校となり、ガリポリの戦いやフランス戦線で闘い、負傷した。
オーストラリアに戻ったブルースは、1918年国民党より出馬して連邦下院議員に当選し、実業家から政治家に転身した。1921年に地方党の党首となったアール・ペイジが、ヒューズとの協力を忌避したため、ブルースは、1923年ヒューズのあとを継いで、地方党と連立を組み首相となった。イギリス帝国には「人、金、市場」があるというスローガンを掲げたブルースの政策は、イギリスとの関係を深めつつ、オーストラリアの投資環境を整え、移民を促進し、国力・防衛力の増強をはかるというものであった。開発振興政策を進め、1927年にはキャンベラに連邦議会を移した。しかし、1925年から26年にかけての港湾組合のストライキを強圧的に収拾したことで、労働組合の反発を招き、1928年の総選挙では勝利したものの労働党の躍進を許した。ブルース政権は、失業者対策として国民保険法案を提案したが、1929年の海運産業法案の審議過程におけるヒューズの反対運動により内閣は倒され、続く総選挙で敗北した。
ブルースは、首相退任後も政権復帰をねらったため、1931年に統一オーストラリア党を結成したライオンズ首相は、ブルースをオタワ会議の代表として派遣、33年にはイギリス駐在の高等弁務官に任命し、その動きを封じた。活躍の場を外交に移さざるを得なくなったブルースは、1932年から39年まで国際連盟のオーストラリア代表をつとめた。ブルースは、緊迫化する国際情勢の緊張緩和をめざす一方で、イギリスが紛争に巻き込まれることを防ぐため、アビシニア紛争などへの連盟の積極的な介入を避ける方針を主張した。第2次世界大戦中も、イギリスに留まって英豪間の戦時協力に活躍した。1945年には高等弁務官から退くが、戦後も国連食糧農業機関などで活躍を続け、1947年にメルボルン子爵に叙され、オーストラリア出身ではじめてイギリス貴族院議員となった。1951年から61年までオーストラリア国立大学の初代学長もつとめた。1967年、ロンドンで死去した。
酒井一臣01