オーストラリア辞典
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Brisbane, Thomas

ブリスベン(ブリズベン)、トマス


1773-1860
エアシア、スコットランド生まれ。
軍人、ニューサウスウェールズ総督(1821-1825)。


 スコットランドの名門の家系に生まれ、エディンバラ大学とケンジントンのイングリッシュ・アカデミーで教育を受け、17歳で陸軍に入隊する。フランドル、西インド諸島、北アメリカなどで従軍し、武勲をあげて、1812年に少将に昇進した。その後、アイルランドのマンスター地方を統轄中、1820年にウェリントン公らの後ろ盾を得て、オーストラリアのニューサウスウェールズの総督となった。

 前総督マクウォリーの寛大な政策に対して、ブリスベンの仕事はビッグ報告書の厳しい勧告を実施することであった。彼は報告書に基づく流刑囚の受け入れと規制に取り組みながら、同時に自由移民も奨励し、両者の混在する社会に適した法的・社会的な体制を築くことに努めた。また、新しい土地を移民に与えることにも力を入れて、カンバーランドの諸県の外への入植を認めただけでなく、現在のクィーンズランドにあたる地域にも入植を始めた。現在のクィーンズランド州都、ブリスベンは彼の名にちなんでいる。

 1824年、最初の立法評議会を招集し、法務長官フォーブズを首席判事とする最高裁判所を設立するなど、英国と類似したシステムを導入した。これにより、1824年に陪審制が、特定の状況においてだけではあるが、初めて許されるようになった。ブリスベンは出版と言論の自由を尊び、政府から独立した最初の自由な新聞 『オーストラリアン』Australian の創刊を奨励したが、これがエマンシピストを支援する新聞であったということもあり、反対者の批判の対象となった。彼はイクスクルーシヴズとエマンシピストの対立において、中立的な立場を保とうと試みていたが、エマンシピストの活動に対して、ロンドンへの請願運動を行ったイクスクルーシヴズの反感に悩まされることになった。そして、植民地長官ゴールバンとの衝突が、直接的な原因となり、本国に呼び戻された。ブリスベンは、1825年に植民地を去り、ダーリングがその後任となった。

 ブリスベンは天文学者としても名高く、1808年にスコットランドで2番目の天体観測所を設け、ロンドンのロイヤル・ソサエティの会員となった。また、7,385個の星の目録を作り、ロイヤル・ソサエティからコプレー勲章を授与された。オーストラリアのパラマッタと、帰国後スコットランドにも、天体観測所を設けている。

 吉田祥子0501