オーストラリア辞典
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Boyd, Benjamin

ボイド、ベンジャミン


1801?-1851
ロンドンに生まれる。
企業家、パストラリスト、NSW立法評議会議員。


 1801年、ロンドンの商人、エドワード・ボイドの次男としてロンドンに生まれる。1824年までには株式仲買人となり、1839年、ロイヤル・バンク・オブ・オーストラリアを設立した。この銀行の投資家から20万ポンド以上の資金を集め、この資金をボイドはオーストラリアでの投資に用いた。1840年、ボイドは植民地大臣のラッセルと交渉し、オーストラリア沿岸の定期船の運航と引き換えに、5、6ヵ所の港とその周辺の土地を購入する権利を得た。1842年、ボイドはオーストラリアに渡り、銀行のシドニー支店を設立した。1844年までに彼は植民地最大の土地を所有する牧畜家の1人となり、保有する牧場の面積は、50万エーカー近くに達した。またロイヤル・バンクなどの関連資本の所有分を合わせれば、250万エーカー以上の土地を所有し、16万頭以上の羊を所有していた。

 ボイドはこれらの牧場における労働力不足の解消のため、太平洋の島々から多数の島民を移住させる計画を立て、1847年には島民をニューヘブリデスやロイヤルティー諸島から導入した。しかし、その年の終わりまでにはそのほとんどを送り返さなければならなかった。1843年までに、長引く不況のために都市部では失業が深刻化していたが、内陸部の牧場では労働力不足が起こっていた。しかし、その労働条件は劣悪なものであり、賃金も低く、また、家族で行う種類のものでもなかった。そのような労働に従事させるため、ボイドは南太平洋からの年季労働者の調達を進めた。1847年にニューヘブリデス諸島から65人が導入されたが、英語を理解できず、何の知識も持たない島民は騙されたも同然であった。オーストラリア大陸に上陸してすぐに島民は当初の話と違うことに気づき、数日後に海岸まで戻り、もとの島に帰ることを要求した。フィッツロイ総督はボイドの契約は非合法であり、拘束力はないことを認めた。しかし、大半の島民はどの島から来たかさえもわからず、2度ともとの島には帰ることができなかった。

 また、トゥー・フォールド・ベイにボイド・タウンとイースト・ボイドの2つの植民地を建設し、港として、また捕鯨基地として利用しようとした。また牧畜家の利害を主張するために、パラリスト協会の会長となり、1844年から45年には、ポートフィリップ代表としてニューサウスウェールズ立法評議会の議員を務めた。1847年、彼の資金運用の不透明な部分が問題化すると、銀行を解雇され、1849年には破産に追い込まれた。債権者たちの手から逃れるために、ゴールドラッシュにわくカリフォルニアへ向かい、再起を図ろうとする。しかし成功せず、オーストラリアへ戻る途中に立ち寄ったソロモン諸島で、1851年に原住民によって殺害されたと考えられている。 

 藤岡真樹・新林秀亮1101