オーストラリア辞典
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Bourke, Sir Richard

バーク、リチャード


1777-1885
ダブリン、アイルランド生まれ
総督(1831-1837)


 1831年から1837年までニューサウスウェールズ植民地の総督を務めた。宗教や教育面での改革に特に功績がある。バークの時代には経済的にも大きく発展した。

 アイルランドのリメリックのアングロ・アイリッシュの地主の家に生まれる。ウェストミンスター・スクール、オクスフォード大学などで教育を受ける。1798年海軍に入り、翌年将校となる。以後、オランダやアメリカ、スペインなどに従軍した。(オランダでは重傷を負った。)

 1814年、大佐で予備役に退き、一時リメリックに戻り治安判事などを務め、自身の農場経営にあたったが、よりよい収入と健康によい気候を得るため公職を探し、1826年から1828年までケープ植民地の総督代理を務めた。カフィール人などとの衝突を抑えたり、さまざまな行政改革を成功させた。ケープ植民地で名声を得た彼は、ニューサウスウェールズで人気のなかったダーリング総督に代わって1831年総督になった。

 彼は、イギリスの政治ではホイッグ派に属し、リベラルな考えをもった人物だと考えられていた。彼の治世の下で、さまざまな改革が行われた。まず、自由移民を支援し、スクオッターによる土地の占有を公認した。さらに、刑事裁判に陪審員制が導入され、囚人に対する治安判事の力が大きく削減された。また、立法府に選挙制を導入しようとしたが、これは失敗に終わった。

 彼のリベラルなヴィジョンは、宗教と教育の分野での活動に最もよく現れている。バークは、若い移民の定住を図るとき、植民地での適切な宗教が提供されていないことを問題視した。そこで、それまで植民地内で勢力の強かった国教会だけでなく、他の宗派にも政府の財政的援助を与えることにした。これによって、あらゆる宗派の教会や牧師が大幅に増えた。

 また、バークは、政府が資金を出し、運営する単一の教育が、すべての子供に提供されるべきだと考えた。これは、彼の、アイリッシュ・ナショナル・スクール・システムの経験からきている。この提案は、イギリス国教会による激しい反発にあい、彼の時代には実現しなかったが、後の教育における発展の模範となった。

 バークは政治において、イクスクルーシヴズと対立していた。イクスクルーシヴズである植民地財務長官との対立で、この争いはクライマックスに達し、それが原因となって総督を退いた。本国に戻った後はリメリックに住み、州長官として活躍したり、彼の遠縁にあたるエドモンド・バークの書簡の編集を行った。

 彼の彫像は、一般市民の寄付によって作られ、ニューサウスウェールズ州立図書館の前に立てられている。

 山崎雅子00