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Bounty Mutiny
バウンティー号の反乱
1789年にトンガ諸島近辺で起こった船員の反乱。 1787年秋、ブライ船長のもとイングランドを出発した英国軍艦バウンティー号は、タヒチから西インド諸島へパンの木を運ぶ予定であったが、当初からのブライと乗組員たちの不和がもとで1789年4月に暴動が起こった。ブライとブライに従った18人の乗組員は船を下ろされ、小さなボートに乗せられた。そのボートは約6週間漂流し、3,618マイル離れたティモールへたどり着いた。1790年にイングランドに着いたブライは軍法会議で罪を免れた。反乱を起こした者の中には自首する者もいれば、1791年に捕らえられた者もいた。彼らをイングランドへ輸送していたフリゲート艦パンドラ号はトレス海峡で沈没し、その犠牲者には反乱者も含まれていた。イングランドで裁判にかけられた10人のうち、4人が無罪、6人が死刑を宣告された(実際絞首刑となったのは3人)。反乱を率いたフレッチャー・クリスチャンFletcher Christianらは、タヒチの人とともに1790年、タヒチの南東にあるピトケアンPitcairn島へ移り住んだ。彼らの子孫約200名は1856年、ノーフォーク島へ移った。Greg Dening, Mr. Bligh’s Bad Language (1992)は、この事件を歴史人類学的視点から再構築した研究であり、メルボルン学派の代表作である。
清水寿夫00