オーストラリア辞典
Loading

和文索引(ほ)に戻る  英文索引(B)に戻る


Borovansky,Edouard

ボロヴァンスキー、エドワード


1902-1959
モラヴィア生まれ。
バレエダンサー、振付師、監督。


 1902年、チェコスロヴァキアのモラヴィア地方、プルシェロフで鉄道の事務員フランチセーク・スクリセークの7番目の子として生まれる。幼い頃から民俗舞踏に親しみ、19歳でバレエの世界に入り、23歳でプラハ国立バレエ劇場付属学校に入学した。しばらくの間そこのバレエ団にも属し、コーラス・パートや群衆の役を担当した。1928年にアンナ・パヴロワの公演を見たスクリセークは、彼女のバレエ団に入り、名前をボロヴァンスキーに変えた。ボロヴァンスキーはアンナ・パヴロワのバレエ団の一員として各地を回った。

 1929年の初めてのオーストラリア公演で彼は主役の座を与えられ聴衆から絶賛された。翌年パヴロワが死去するとバレエ団は解散し、ボロヴァンスキーは1931年から39年までの間、バジル大佐のロシア・バレエ団に所属しソリストとして活躍した。1933年には仕事仲間のセニャ・ニコラエーヴァ・クルーガーと結婚している。ダンサーとして人気を博したボロヴァンスキーは、1938年にオーストラリアを再び訪れ、政情の不安定な祖国を避けて妻とともにこの地にとどまることを決心した。

 彼は1939年にメルボルンでバレエ学校を始めたが、指導は妻が担当し、ボロヴァンスキーは専ら興行主として活動した。学校の生徒たちはボロヴァンスキー・オーストラリア・バレエ団として1940年に初公演を行った。ボロヴァンスキー・バレエ団はレパートリーが広く、スタンダードなクラシック・バレエからボロヴァンスキー自身が作った「テラ・オーストラリス(オーストラリアの大地)」を含むモダン・バレエまで及んだ。同バレエ団はオーストラリアを代表するバレエ団となり、ブランクをはさみつつも1961年まで続き、1962年創立のオーストラリア・バレエ団の礎を作った。ボロヴァンスキーは1959年にシドニーで亡くなった。彼は現在「オーストラリアのバレエの父」と呼ばれているが、彼の偉業は妻無くしては達成されなかったと思われる。妻のクルーガーは夫が舞台上に関心を注いでいる間に、バレエ団の団員を教育しダンサーに育て上げたのだ。ボロヴァンスキーはいかなるダンス・スタイルも拒まなかった。彼はオーストラリア人としてのアイデンティティとダンスのインターナショナルな世界の両方に自らの場所を見出し活躍した。

 左近幸村0501