Blaxland, Gregory
ブラックスランド、グレゴリー
1778-1853
ケント州、イングランド生まれ。
探検家、初期開拓者、農業経営者。
1778年6月17日、イングランドのケント州に生まれる。フォーディチFordwichの市長の4男として生まれた。一族はその周辺に大土地を所有する地主であった。ブラックスランド家は、ジョゼフ・バンクスの友人であり、ジョンとグレゴリーの兄弟がニューサウスウェールズに移民するにあたり、大きな影響を及ぼしたと思われる。資本家を移民させるという目標を掲げていたイギリス政府は、兄弟に土地と囚人労働を約束し、資産を売却する兄のジョンを残して、グレゴリーは家族とともにニューサウスウェールズに移民した。
植民地に到着すると、4,000エーカーの土地と50人の囚人労働者の割り当てを約束され、さらに450エーカーの土地を購入した。ブラックスランド家は、リスペクタビリティに関して何の疑念もない最初のジェントルマン入植者とも言える人々であった。植民地の経済構造をすぐに把握し、投機を行い、政府にさらなる特権の付与を要求して、ブライの監禁にも賛成した。また、ブラックスランド兄弟は、シミアン・ロードと共同で家畜放牧場を購入し、家畜の飼育に強い関心を抱いた。1809年に副総督パターソンが2,000エーカー、総督マクウォリーが最初の土地に代えての2,280エーカーと、さらに500エーカーの土地をグレゴリーに無償交付した。マクウォリー総督は、囚人を割り当てられているにもかかわらず、農業を行わないブラックスランドに批判的であった。これに対して、ブラックスランドは家畜に関心があり、植民地の未来は新たな放牧地の開拓にあると確信していた。
1813年グレゴリー・ブラックスランドは、ウィリアム・ローソン、W.C.ウェントワースとともに、山の峰を通る新しい道を用いて、ブルー・マンテンズを越えるルートを発見し、その西方に広大な牧草地が存在することを確認した。後にブラックスランドは、この探検のリーダーを自認したが、実際のところは3人が対等の立場で参加したと思われる。彼は、大規模な牧畜業の発展の未来像を描き、内陸部における農業会社の設立や、土地の無償交付をマクウォリーに要求した。しかし、これを拒否され、マクウォリーの敵対者となった。ブラックスランドは様々な植物の栽培を試み、栽培したブドウから醸造したワインは、ロンドンでメダルを獲得した。総督ダーリングは、ブラックスランドに1,280エーカーの土地を無償交付するが、これはすぐに債権者の手にわたった。その後、ブラックスランドは歴史の舞台から姿を消し、1853年1月1日に自殺した。
A Journal of a Tour of Discovery Across the Blue Mountains in New South Wales(London 1823)は、ブラックスランドの著したブルー・マンテンズ越えの記録である。
藤川隆男0303