オーストラリア辞典
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Bennelong

ベニロング、ベネロング


1764?-1813
シドニーに生まれる。
イングランドを訪れた最初のオーストラリア先住民。


 ベニロングは、1788年に入植したヨーロッパ人に対する未知の不安を最初に克服した、オーストラリア先住民の1人である。彼は、シドニー周辺に住んだイーオーラの1人である。彼の前にアラバヌーArabanooという先住民がおり、イギリス人と先住民との文化の溝の橋渡しをすることを期待されていたが、1789年5月に天然痘の流行で死亡した。フィリップは何人かの先住民を捕え、拘留することを決意した。1789年11月、ベニロングともう1人の先住民コルビーColbeeは、先住民の習慣や言語を学びたいと考えていた総督アーサー・フィリップの命令によって捕らえられた。フィリップは、土地やその土地の生産物に関する情報を得たり、彼らを先住民と白人入植者の仲介役にしたいとも考えていた。ベニロングとコルビーは手錠をかけられ、シリウス号のブラドリー中尉の命令で、探検隊によってシドニー入江にあった入植地へと連れて行かれた。ワトキン・テンチはベニロングを26歳くらいと推定し、体格がよく、感情的で、反抗的な態度を示唆する勇猛な容貌をしていたと描写している。

 フィリップは2人の先住民を寛大に扱い、他方厳重に警備するように厳しく命令した。しかし、1週間もしないうちに、コルビーは足に小さな鉄の輪をつけたまま逃げた。ベニロングは逃げようとしている時に逮捕された。そして、彼はフィリップたちに協力することが、彼の状況を最も改善するのだと考えるようになった。ベニロングは白人との生活に適応し、彼らの食べ物を好み、酒の味を覚え、英語を話すことを学んだ。ベニロングは、与えられた食べ物や飲み物は、喜んで消費した。彼の協力は、植民者たちの遊びにまで影響し、白人たちの娯楽のために戯れたり、踊ったり、歌ったりしていた。彼はフィリップが期待したとおり、先住民の言語、習慣、活動に関する役立つ情報源となった。また、ベニロングはヨーロッパからの武器類の威力を評価し、彼のグループと昔から敵対していたガメラガルGammeragalに対し、白人による遠征隊を編成しようと試みたりもした。

 ベニロングは、結局2つのどちらの世界からも受け入れられなかった。白人たちは、はっきりとした英語を話すようになったベニロングから先住民の文化について多くの知識を学んだ。彼の仲間は、ほんの少しの英単語で基本的な協力だけを可能にする原始的なピジンでコミュニケイションをしていたが、ベニロングは白人たちと流暢な英語で会話することができた。彼は2つの人種間の調停者の役割を果たし、フィリップと個人的な結びつきを強めていった。フィリップは、彼をしばしば総督邸でのディナーに招待した。

 しかし、ベニロングはまだとらわれの身であり、それは彼にとって嬉しいことではなかった。結局、彼は逃げ出し、仲間のもとへもどった。しかしコルビーとベニロングは、フィリップの善意を確信していたので、家族や友達とともに植民地を再び訪れるようになった。彼らがシドニーにいる間は、総督邸の庭に滞在した。1791年にベニロングの妻バランガルーBarangarooは、女の子ディルブーングを産んだ。そのとき彼女は、シドニー病院の施設を使うことを許された。この年、シドニー入り江の東の岬に、彼のために12フィート四方のレンガ小屋が建てられた。そこには、現在シドニー・オペラ・ハウスが建てられており、ベニロング・ポイントと呼ばれている。同年12月頃、妻と娘は死亡した。フィリップの協力で、娘は総督邸の庭に埋葬され、妻は総督や将校たちの前で火葬に付された。

 1791年に、彼はキング中尉とともにノーフォーク島を訪れた。キングはその旅をベニロングに英語の使い方を教える機会にしようと考えていた。ベニロングは槍や他の武器を持って行った。フィリップは彼に所有物を入れる箱を与えた。その一隊は出発の前夜に総督邸で食事をし、ベニロングはそこでその場にいた人々に、彼の紅茶を飲むマナーがまずまずのものであるという印象を与えた。

 ベニロングは妻と娘の死によって、ますますフィリップとの友情を深めていった。なぜなら、フィリップもまた同じように、ニューサウスウェールズには、血の繋がった身内も親友もいなかったからである。1792年12月、彼はもう1人の先住民イェメラワニーとともに、フィリップに連れられてイングランドへ旅立った。記録によれば、2人の先住民は喜んで、世界の別の側に海を越えて行く冒険を楽しみにしていたそうである。

 彼らはイングランドに到着し、ケント州のエルサムElthamにおもに滞在していた。記録は、2人の先住民にイギリス政府が責任をもって、彼らの半ズボンやリネン、靴、ベストの費用を政府の資金から支出していたことも示している。ベニロングはジョージ3世との謁見も許された。イギリス政府は彼らの洗濯物や靴の修理、服の繕いの世話までした。1793年にイェメラワニーが肺の病気になったときは、当時の最良の治療がなされた。しかし、1794年5月18日についにイェメラワニーは死亡した。ベニロングには男性の召使と女中があてがわれていた。ベニロングのイングランドでの支出は200ポンドを超すと考えられている。

 ベニロングは1794年8月、プリマスからリライアンス号で帰国することになったが、船は1795年まで出航しなかった。1月25日、ハンター総督は風邪やホームシック、帰国の延期により、ベニロングの健康状態が悪化していることを記録している。彼は、手ぶらでは帰らず、先住民の女性のために女性用ガウン7着、ボンネットを8つ、リボンを2つ持って帰った。また、自分用にモスリンハンカチーフ12枚、ポケット・ハンカチーフ7枚、アスコットタイ7本、帽子2つ、靴の飾り留め金24個、船旅の間の寝具1セット、旅の間の服などを持って帰った。彼はチェストに自分の荷物を入れ、女性たちへの贈り物を別の箱につめた。ベニロングは意気揚揚と人目を引くことを期待してニューサウスウェールズに戻った。

 1795年9月、イングランドから戻ったベニロングは、先住民の女性を得るための努力を始めた。しかし、明かにその努力は失敗で、その上にひどく傷ついた。彼は面目を失い、先住民の女性は彼を避けるようになった。それは、イングランドのジェントルマンの生活が、先住民の文化から完全に彼を引き離すことになったためだと考えられる。その後の彼についてはあまり知られていない。ただはっきりしていることは、彼が先住民たちにも、白人社会にも完全には受け入れられなかったということである。2年後、彼は「酒をとても好み、酔った時にはあらゆる危害を与えかねないほど乱暴で暴力的な状態」となったようだ。1798年、彼は部族間の闘争で2回負傷した。

 ベニロングは、1813年1月3日にキッシング・ポイントで死亡した。『シドニー・ガゼット』は、彼の死後6日目に、乱暴で野蛮な彼の特徴を非難する記事を掲載した。新聞は、先住民社会から誘拐され、独自の文化から引き離されたベニロングの特質について全く理解できなかった。

 彼の妻は2人いた。1人は前述のバランガルーで、もう1人の妻はグールーバルーブールーであった。しかし、彼がイングランドに行っている間に別の相手をみつけて、帰って来た時には彼を拒否した。また、彼にはウィリアム・ウォーカー牧師に育てられた息子もいた。洗礼をうけて、トマス・ウォーカー・コークThomas Walker Cokeと名づけられたが、20歳頃に病気で死亡した。

 田中沙依1101