オーストラリア辞典
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Beechworth

ビーチワース


ヴィクトリア北東部、メルボルンの北東271キロに位置する。
人口:2,953(1996)、3,154(1981)、3,554(1966)、2,852(1933)、3,409(1911)、2,317(1861)、3,040(1857)、1,275(1854)。


 地名は、1853年に当地を訪れた政府測量官の、イングランドのレスタシアの生地に由来する。かつてはヨタ・ヨタYota-Yotaのアボリジナルの居住地であった。1839年5月に、デイヴィド・リードがエルドラド・クリークを探検した際、この地域をメイ・デイ・ヒルズと名づけていた。1852年にスプリング・クリークSpring Creekで金が発見されるまでは、あまり発展しなかった。しかし、周辺部も含めて金の発見が相次いだため、この地域の人口は8,000人ほどにまで急増し、オヴンズOvens金鉱の中心地として発展した。1853年には、メイ・デイ・ヒルズの商店主たちの要請に基づいて町の測量が行われ、ビーチワースと名づけられた。1857年には、近隣地域を含めた人口は22,500人に達した。ビーチワースは、1853年からの14年間で85,000キロの金を産出するとともに、20世紀初めまで、メルボルン以外のヴィクトリアでは、最も多くの中国人が居住していた。現在でも、中国寺院や墓地が残っている。他方、ヴィクトリアで最も有名な反中国人暴動がオヴンズ金鉱に属するバックランド・リヴァーで起こったことでも知られている。1857年頃からは、地域の行政的な中心地としても発展し、電信局、財務局、金管理事務所等が設置された。1861年に郡、1863年には自治体となり、1871年には郡とバラが合併した。

 しかし、この地域では農業が発展しなかったために、金などの採掘が減少したことにともない、町は1873年から1900年にかけて衰退した。金の生産は1921年に終わり、20世紀に入ってからも町は停滞を続けた。民間部門における主要な雇用先は、1858年に開業した皮なめし工場であったが、1961年に閉鎖された。そのため政府は、精神病院や教化刑務所を改修したり、森林国土委員会における雇用促進等の対策を講じた。

 1960年代からは、歴史的建造物を活用した観光業が重要になった。ゴールドラッシュ時代の街並みが保存されており、ヴィクトリアではメルボルンに次いで多くの歴史的建造物や記念物がある。ナショナル・トラストが指定する建物だけでも30を越えている。歴史的な逸話も多く、ゴールドラッシュのエピソードとして、1855年の初めての選挙で当選した議員の馬の蹄鉄を、地元の人々がお祝いに金で作ったという話が残っている。裁判所博物館はケリー・ギャングと関係が深い場所であり、毎年多くのオーストラリア人が訪れる。

 浅野敬一・藤川隆男0403