オーストラリア辞典
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Battle of Brisbane

ブリスベンの戦い



 1942年2月、日本軍の攻撃によりシンガポールが陥落し、15,000人ものオーストラリアの兵士が捕虜となった。オーストラリアは日本人による侵略の危機に直面したのである。1788年以来英国海軍によって保護されてきたオーストラリアだったが、その英国もヨーロッパにおいて自国の独立を保持するのに精一杯で、当てにはならない状況であった。

 そこで、1941年12月、当時の首相ジョン・カーティンJohn Curtinは、戦略変更をうち出した。それは、英国との伝統的な連携よりも、アメリカ合衆国に頼る方が、この事態を乗り切るには賢明だとする判断であった。アメリカは、オーストラリアが日本攻撃の土台になると歓迎した。南太平洋連合国軍最高司令官、ダグラス・マッカーサーはオーストラリアに上陸し、司令部を置いた。1942年3月には、第1陣のアメリカ軍隊がブリスベンに到着した。日本空軍はダーウィンとブルームの爆撃を始め、侵略は時間の問題だと思われた、この状況下で、アメリカ軍人たちは救世主として多くのオーストラリア人による熱烈な歓迎と感謝を受けた。

 ヨーロッパ前線から戻ってきたオーストラリアの部隊は、ココウダ及びミルン湾Milne Bayの戦いで、日本軍を陸上戦において初めて破った。しかし、マッカーサーは勝利の講評の際、連合国軍にだけ言及し、オーストラリア人の活躍に特に言及することはなかった。敵の目前で尻込みしたアメリカ人がいたことを知ったオーストラリア人は激怒し、2国の軍隊の関係は悪化した。また、人種、性的、経済上の理由からも、敵対関係は増大していった。当時、白豪主義の政策をとっていた中で、アメリカ軍には多くの黒人兵士が含まれていた。2国間の習慣と文化は大きく異なり、アメリカン・ジョークもオーストラリア人には面白味が無く、高慢だとしか思われなかった。例えばこんなエピソードがある。ある酔っぱらいのアメリカ軍人がバーに入ってきて、「オーストラリア人の皆さん!日本人から君たちを救いに来たぞ。」と叫んだのだ。その結果は、ちょっとした暴力沙汰となった。

 1942年10月、オーストラリア駐在のアメリカ大使が書いた、フランクリン・ルーズヴェルト大統領への報告は、オーストラリア人が日本の脅威から救ってもらったことを感謝していると述べ、数え切れない町の酒場やレストランでのいざこざや騒ぎの報告を無視していたのである。この緊張を増大させたのは、経済的な問題に主な理由があった。アメリカ兵にはオーストラリア兵の2倍の賃金が支払われ、将校についてはそれ以上であった。さらに、アメリカ軍の軍隊の売店には、一般の人々には入手困難な商品があり、たとえその商品を手に入れることができたとしても、大変高価で、タバコなどはアメリカ兵の買う4倍の値段が付いた。このアメリカ人の羽振りの良さは、多くの人の目を引いた。またこの時、オーストラリアの女性たちは、アメリカ人の周りにハチのように群がった。これは、オーストラリア兵たちの嫉妬を招いた。

 1942年11月26日のアメリカ感謝祭の日に、10万人以上の両軍の兵士が粉を散らしたように町の中に現れ、各地で急接近した。争いのきっかけは、軍の売店でタバコを買ったアメリカ兵と、3人のオーストラリア兵の口論であった。アメリカのMPが仲裁に入ったが、オーストラリア人たちは彼に暴行を加えた。それを見ていた彼の部下が、応援に入り、ブリスベンの戦いが勃発した。

 争いは瞬く間に広がった。MPと市民警察が出動して警護をしていたにもかかわらず、3,000人ものオーストラリア人が軍の売店を襲い、略奪を行った。アメリカ軍MPはショットガンを持ち出し、1人のオーストラリア人が殺され、7人が負傷した。しかし、それ以上の死者を出したと言う噂が広まり、また、映画館にいた少女をも撃ち殺したという話も広まった。その結果、この争いはさらに激化し、町中の乱闘は2日間も続いた。アメリカ人に死者はいなかったが、負傷者が出た。新聞には軍の検閲官によって一握りのオーストラリア兵とアメリカ軍兵士とのささいな軍隊の暴動として取り上げられた。しかし、この戦いは2日間に渡って続いており、ブリスベン地域以外からオーストラリアの将校たちが軍を率いてきた3日目にやっと秩序が回復した。

 皮肉にも検閲が事態を悪化させた。というのも、正確な情報を持たない人々の間で噂が増幅されたからである。終戦後何十年もブリスベンの戦いについての話が、オーストラリアの隅々でなされ、死者と負傷者の数がさらに誇張されていった。

 遠藤貴弘1001