オーストラリア辞典
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Barton, Edmund

バートン、エドモンド(エドマンド)


1849-1920
シドニー生まれ。
オーストラリア連邦初代首相(1901-1903)。


 オーストラリア連邦初代首相。ニューサウスウェールズの連邦運動のリーダーとして活躍し、今日のオーストラリア連邦の基礎を築いた人物の1人。

 1849年シドニーで金融業を営む父ウィリアムと、1860年代に女学校を経営していたマリー・ルイーザの間に生まれる。シドニー・グラマーからシドニー大学を卒業すると、1871年弁護士になった。 1876年と1877年に、ニューサウスウェールズ下院選挙に立候補するが落選し、1879年に3回目の挑戦でようやく当選、シドニー大学選挙区の代表として政界に入った。

 1883年には下院の議長となり4年間務めた。 1887年議長を辞任すると、上院議員に任命された。この時バートンは、上院における政府の代表者となるようにとのパークスの要請を拒否した。 1889年にはティブズの保護貿易派内閣に入閣し、第1回国民保護貿易会議the first National Protection Conferenceの議長を務めた。この頃、バートンは公然と連邦主義者を名乗るようになり、ヘンリー・パークスが政界を引退した時、パークスから連邦運動federation movementのリーダーの座を引き継いだ。また1891年には保護貿易派政権の司法長官にも就任した。 3年間司法長官を務め、行政上の貴重な経験を積んだが、その間に連邦派のリーダーとしての名声は落ち、自由貿易主義者や労働党のメンバーも彼を信用しなくなった。そして1894年の選挙で落選した。そこで、バートンは、続く3年間を連邦派のために捧げ、「我々は歴史上初めてひとつの大陸をひとつの国家にしようとしている」と熱く主張した。バートンは他の植民地の主要な連邦主義者と密接な関係を持っており、1897年にはオーストラリア全体の連邦運動のリーダーとなった。また、後に連邦憲法制定議会の代表に選ばれ、憲法草案作成委員会the drafting and constitutional committeesの議長にも選ばれている。

 1890年代を通して、バートンは連邦化をめぐる数回の国民会議でニューサウスウェールズ代表として大きな役割を果たし、連邦化の国民投票を求める活動を行い、まさしく連邦運動のリーダーとしての働きをした。また、1893年に彼が設置したオーストラリア連邦連盟the Australian Federation Leagueは支部を増やし、連邦化の草の根の活動の中で主要な組織となった。

 1900年、植民地大臣ジョゼフ・チェンバレンの招きで、連邦化の法案を英帝国政府に説明するための代表の1人としてロンドンへ赴き、法案の可決に尽力した。オーストラリアへ戻ると、ウィリアム・ラインWilliam Lyneが植民地総督の要請で内閣の成立を目指したが失敗したので、バートンが最初の連邦内閣を組織し、首相になることを求められた。 1901年1月1日オーストラリア連邦が正式に発足し、バートンは首相兼外務大臣に就任し、各植民地の主要な政治家からなる内閣の形成に成功した。総選挙後の連邦議会では、バートンやディーキンらの保護貿易派は多数派を形成できず、連邦議会下院では労働党に頼る必要があり、上院でも少数派で状況は同じであった。しかし、議会が開会されると、行政運営上必要な立法ののち、移民制限法や太平洋労働者法を成立させた。この移民に関する立法の他に、1903年までの2年間のバートン内閣は、関税に関する立法やボーア戦争をめぐる国防の問題、官公庁・連邦最高裁判所の設立などによって特徴づけられる。 1903年9月バートンは首相を辞任し、その数日後、新しい連邦最高裁判所の判事に就任した。彼は首相を辞任しても政界を離れるつもりはなかったのだが、友人たちは家族のために法廷に行くように勧めた。実際のところ、彼の党はすでに彼のリーダーシップを必要としなくなっていたのである。

 バートンは公平で優秀な判事であった。機知を備え、案件の本質を容易につかみ、鋭い理解力と寛大さをもってそれを議論した。バートンはグリフィスなどとともに、憲法の番人としてオーストラリア憲法を保守的に解釈し、州権の擁護に務めた。

 1920年1月、ブルー・マウンテンズのメドロウ・バスで、バートンは急性心不全で死亡した。

  新村祐規00