オーストラリア辞典
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Ballarat

バララット、バララト


ヴィクトリア南部、メルボルンの西113キロに位置する。
人口:64,832(1996)、62,641(1981)、37,411(1933)、22,104(1861)。


 地名はアボリジナルに由来し、「キャンプをする、あるいは休息する場所」の意味である。古くはYuille's Swampという地名であった。ヨーロッパ人の入植以前にはワタワルングのアボリジナルの居住地であった。最初にこの地を訪れたのは、トマス・リアマウスとスコットランド人スクオッターたちであった。1838年にはブラック・スワンプにバララット牧場が設けられた。

 1851年には金が発見されたが、その年の終わりまでに、金の鉱脈は枯渇した。それにもかかわらず、バララットの町は測量され、町の建設計画は進んだ。この時、2度目のゴールドラッシュが、イギリスからの熟練した鉱夫や、ユリーカ、カナダ鉱脈発見後の縦抗の深化により起こった。1854年にはユリーカ砦で鉱夫と警官、兵士たちとの間で武力衝突が起こっている。このユリーカ砦事件はオーストラリア労働運動の端緒とも言われる。また同年、オーストラリア最初のゴールド・バッテリー(砕岩機)が設置された。ゴールドラッシュ期には、中国人が人口の6分の1を占め、1855年には6つの中国人保護区が設置された。1868年にゴールドラッシュはピークに達し、人口も6万人を超え、300社もの採鉱会社がこの地にあったが、その後1870年には金採掘量が減少し、短期間に人口が約40%減少した。1875年にはバララット・ウェストとセバストポールの金鉱が閉鎖され、1918年には最後の金鉱も閉鎖された。

 バララット・ウェストの町の建設用地の測量が1851年に行われ、翌年には公示された。1855年に自治体に、1863年にはバラに、1870年にはシティとなった。一方、バララット・イーストは1857年に自治体となり、1863年にはバラに、1872年にはタウンとなった。1864年にはセバストポールもバラとなっている。シティ・オヴ・バララットとバララット・イーストとの合併は1921年に行われた。

 ゴールドラッシュにともない町も繁栄し、様々な商品、サーヴィス、採掘機械の需要も高まった。1862年、メルボルンからの鉄道が開通し、1875年にはメアリバラとアララットにまで延長されたので、バララットは鉄道の重要な拠点となった。刑務所が1859年から1862年にかけて建設され、現在の郵便局が1863年から翌年にかけて、現在のタウンホールが1870年に建設されている。1864年にはウェンドリー Wendouree湖が、ブラック・スワンプを堰き止めて造られた。それに続いて、植物園と動物園がその近くに設けられた。紡績工場が1872年に開かれ、1870年には鉱山学校が設立された。フェニックス鋳造所が1850年代に設立され、1880年代には機関車工場となった。金鉱では大規模な設備による生産が主流となり、これに対応するためにセバストポール鉱夫労働組合が1870年に結成された。これはこの種の組合としては、植民地で最初のものであった。ヴィクトリア州で最初の地方美術館が1884年にオープンし、1888年には新しい証券取引所が建てられた。ヒストリカル・レコーズ・ソサエティが1896年に設立されたが、これはおそらくオーストラリアで最初の歴史学会であると思われる。

 19世紀の終わりには、金の生産は減少し、町も一時衰退したが、工業を中心とする新しい産業が町の活力を支えた。20世紀に入るとバララットは、地方行政の中心地、サーヴィス業、製造業の町となった。1920年にはバララット冷凍会社が設立され、1925年には下水処理施設が建設された。1880年代にルーカス被服工場が設立されたが、1949年にはオーストラリアで最初のナイロン・トリコット毛織物が同工場で生産された。この生産は1969年にコートオールズにより引き継がれた。アニュアル・ベゴニア・フェスティヴァルが1953年に初めて開かれた。また、1956年にはウェンドリー湖でオリンピックの競漕競技が行われている。現在もヴィクトリア内陸部最大の都市であり、初期のゴールドラッシュの町を再現したテーマパークや、金塊を展示する博物館など見所が多い。

 中村武司・藤川隆男0403