オーストラリア辞典
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Bairnsdale

バーンズデイル


ヴィクトリア北西部の町、メルボルンの東282キロに位置する。
人口:10,890(1996)、9,459(1981)、7,427(1961)、3,270(1891)、20(1854)。


 ミッチェル川の河畔に位置する港町。初期の定住者たちの出身地であるスコットランドのスカイ島のバーニスデイルBernisdaleにちなんで名づけられた。 1840年にはアンガス・マクミランが探検し、ミッチェルMitchell川を名づけた。白人の植民が始まるまでは、ガナイGanay(Kurnai)のアボリジナルで占められていたが、1842年にフレデリック・ジョーンズをはじめとする最初の移民がラックナウLucknowに定住した。先住民たちはこの地域をWayanと呼んでいた。それは「あひる」という意味である。1856年には郵便局が完成し、1861年に町の場所が公告され、1862年には測量が行われた。ギップスランド東部の港町として、またニコルソン川、タンボウTambo川流域の金鉱はもちろん、モナロウ地方のための港町としても発展した。警察署は1862年に設立され、裁判所、学校は1868年に建てられた。 1875年にはミッチェル川に橋がかかり、1876年に皮なめし工場が開業、鉱山で使われる道具を作る工場も1877年に設立された。町は1880年代以後も発展を続け、1883年から1891年には鉱山学校が設立され、1888年には鉄道が開通した。その他にも、1868年から1916年の間にはホップが栽培され、氷とバターの工場が1891年に建てられた。また、新しい裁判所は1892年から翌年にかけて建てられ、フルーツの缶詰工場は1907年に設立された。また、聖メアリーのカトリック教会は1913-37年に建てられた。1920年代初期になるとイタリア南部からの移民が増え、野菜の栽培が重要になってきた。1950年には空路が開設された。第2次世界大戦中には野菜工場と空軍訓練所が設立された。1967年には郡とは分離し、タウンが公告された。裁判所は「オーストラリア・スタイル」と呼ばれる建築様式の発展に影響を与えた建物として知られている。

 新村祐規・藤川隆男0403