Australian Rules Football
オーストラリアン・ルールズ・フットボール、オーストラリア式フットボール
18人制フットボール。オーストラリアでは単にフットボールと呼ばれる。
オーストラリアン・フットボールの特徴はラグビーよりも安全なことである。人を蹴ったり足をひっかけたりすることは、1859年に当然禁止されているし、ラビッティング(屈んだ状態から相手に向かって飛び上がること)や、相手をグランドに押し倒すことも1870年代中頃に禁止されている。
オーストラリアン・フットボールは新しいフットボールとして、19世紀後半メルボルンで作られた。1859年には正式なルールの輪郭となるものが作られた。この最初のルールを作った7人全てが、メルボルン・クリケット・クラブのメンバーであり、その中心となったのが、ラグビー校出身のトマス・ウィルズThomas Willsであった。1859年から1877年の間は、ヴィクトリアのルールで行われ、1880年代まではヴィクトリアン・フットボール、もしくはメルボルン・フットボールとして知られていた。
このゲームの独自なところはオフサイドがないところであり、またパンチによりパスを行うところである。また、ゴールはキックのみによるとされた点もあげられる。安全性にとりわけ配慮がなされたのは、クリケット・クラブから設立されたことからもわかるように、これがクリケットのオフ・シーズンのウィンター・スポーツとして始まったからである。
1877年5月にはヴィクトリアの7つのクラブ、メルボルン、カールトン、セント・キルダ、ホサム、アルバート・パーク、ジロング、バーワンがゲームの振興をはかるためにヴィクトリアン・フットボール協会(VFA)を設立した。しかし、VFAのもとではチームの運営が経済的に困難になったため、クラブ8チーム(メルボルン、エッセンドン、ジロング、コリンウッド、サウス・メルボルン、フィッツロイ、カールトン、セント・キルダ)はVFAとの関係を絶ち、1897年ヴィクトリアン・フットボール・リーグ(VFL)を設立した。VFLの目的は、試合をより商業的なものにすることであった。試合をスピーディーにするために様々なルールの改正を行った。人が密集し過ぎないようにチームの人数も20人から18人に減らされた。また、ボールをマークできる距離が延長され、キックの距離が飛躍的に拡大した。VFA もこの後存続するが、ゲームの運営の主導権は完全にVFLに移り、南オーストラリア、西オーストラリアやタスマニアなどの州もVFLに従った。1906年にはオーストラリアン・ナショナル・フットボール会議(ANFC)が設立されるが、ANFCもその後作られた組織もVFLの管理下にあった。
オーストラリアン・フットボールでは、独自のリーグ戦が各州ごとに行われていたが、1980年代から国内統一リーグへ移行するようになる。1982年にサウス・メルボルン・クラブはシドニー・スワンズに変わり、1987年にはブリスベンと西オーストラリアのチームが加わった。こうしてVFLは14チームに拡大し、1990年にはその名称をthe Australian Football Leagueに改称した。さらに1991年にはアデレイドのクロウズも参加するようになった。さらに1995年にはフリーマントルがこれに加わった。
1859年から第2次世界大戦まで、このスポーツはアボリジナルの選手に閉ざされていた。有名なプレイヤーとしては、ダグラス・ニコルズがいるだけであり、すべての選手を合わせても10人に満たない。1980年代にようやくアボリジナルのプレイヤーが多数現れたが、人種主義的な侮辱や野次が観客やプレイヤー自身から、アボリジナルの選手や審判に投げかけられた。そのあまりの深刻さに、社会問題化することがしばしばあった。
新村祐規・藤川隆男0503