Australian Natives' Association, ANA
オーストラリア出生者協会、オーストラリアン・ネイティヴズ・アソシエーション
1871年に共済組合(友愛協会、フレンドリー・ソサエティー)としてメルボルンで設立された。最初はヴィクトリア出生者協会として始まり、会員資格は16歳以上のヴィクトリア生まれの男性に限られていた。1872年に、その名称をオーストラリア出生者協会に改変し、その会員資格を16歳以上のオーストラリア生まれの男性に拡大した。しかし、その影響力は常にヴィクトリアで最も大きかった。1964年まで女性は会員として認められなかった。
1890年代、ANAはオーストラリア連邦運動において非常に重要な役割を果たした。公式の憲法制定会議や連邦形成のための植民地間会議支援のために、一連の会議を自発的に組織した。この当時の会員に、後の英連邦首相アルフレッド・ディーキンがいた。
ANAはオーストラリア連邦に深くコミットしており、帝国連邦構想には強く反対した。イギリスへの継続した忠誠とオーストラリアへの無条件の忠誠の中間を進もうとする努力は、一方ではボーア戦争を支持し、他方ではオーストラリア独自の防衛計画を支持するという態度を生んだ。
ANAの連邦運動は他の愛国主義的な運動に発展し、青年の諸活動やオーストラリア製品購入キャンペーンにつながった。また第2次世界大戦後の非英国系移民の流入に際しては、国籍取得儀式の制度化に力を貸した。また1935年に連邦政府がオーストラリア・デイを採用したのには、ANAの運動が大きく貢献した。1964年に女性が参加するまでは姉妹組織としてAWA、オーストラリア女性協会があった。その男性中心主義と白人優位主義は歴史家たちの批判的検討の対象となってきた。
1927年に友愛協会と保険部門が分離された。ANAの友愛協会部門ANA Friendly Societyはマンチェスター・ユニティーManchester Unity Independent Order of Oddfellows in Victoria Friendly Societyと合併し、1993年9月、オーストラリアン・ユニティーAustralian Unity Friendly Society Limitedとなった。一般にはエイエヌエイANAと略して表現されることが多い。
見国祐也・藤川隆男0103