Australian-Japanese relations
日豪関係(貿易)
オーストラリアにとっての日本は、20世紀の後半までに、警戒すべき相手から積極的協力を構築すべき相手へと変わった。様々な要因が新しい関係を決定する際に考慮されたが、その中で最も重要なものが貿易であった。貿易は、オーストラリアと日本両国の経済における互換関係に基づいている。つまり、豊かな原料を持つオーストラリアと、世界的な工業国である日本との出会いの場であった。また1950年代と1960年代の冷戦期においては、自由主義陣営に加わった日本の協力が、戦争の記憶を和らげるのに役立った。
1934年に、日本はオーストラリアの第2の貿易相手国となることを目指して、通商条約締結のために公的接触を試みた。しかしオーストラリアは、そのような条約はイギリスとの通商関係と矛盾し、しかも日本の交渉のポイントのいくつかは白豪主義を台無しにするものだとの理由で、この提案を拒絶した。1936年、オーストラリアは、両国間の貿易の流れを縮小することになる、貿易転換政策を実施した。
1957年に箱根において日豪貿易協定が調印されたことで、両国の関係は新たな局面を迎えた。この協定が締結されるまでに、日本はオーストラリアの第2の貿易相手国になっていた。オーストラリアは羊毛、小麦、砂糖、大麦、その他様々な品目を含む商品を日本に輸出するに際して、最恵国待遇を約束された。オーストラリアは日本に対する差別的規制を廃止し、GATTの原理を日本との交易関係に適用することを約束した。1963年の議定書によって、この同意はGATTの恩恵をさらに拡大するよう修正された。この条約によって、1966年までに日本はオーストラリア最大の貿易相手国になることが可能になった。
1976年7月、両国首相は日豪友好協力基本条約を結んだ。これは貿易を越えた相互扶助を確認し、商業的・社会的・文化的問題における相互の協力と権利を宣言するものであった。
山口典子00