Alice Springs
アリス・スプリングズ
ノーザンテリトリー中南部、ダーウィンの南1,491キロに位置する地方行政都市。
人口:22,488(1996)、22,759(1986)、18,395(1981)、4,648(1961)、467(1933)。
1871年、大陸縦断電信線Overland Telegraphの建設者たちが、現在の町の北にある水源に辿りついた。そして、その建設責任者チャールズ・トッドCharles Toddの妻アリス・トッドAlice Toddにちなんで、この地はアリス・スプリングズと呼ばれるようになった。しかし、現在の町は1933年まで公的には、スチュアートStuartという名前で知られており、その名の由来となった探検家ジョン・マクダウアル・スチュアートJohn McDouall Stuartは、1860年にこの地域を探検した最初のヨーロッパ人である。この地域はアランダのアボリジナルの居住地域であり、多くの先住民が町に居住している。
1871年、大陸縦断電信線が南方のヘヴィートゥリー・ギャップHeavitree Gapまで延び、中継ターミナルが水源に建てられたが、それは中央オーストラリアで初めてのヨーロッパ式の建物であった。その建物は、1932年に閉鎖された。郵便局と地名は、1932年から33年にスチュアートに移された。1872年から73年にかけて、初期の牧場が発展した。オーウェン・スプリングズOwen Springsは、シドニー・キッドマンSidney Kidmanがこの地域で最初に購入した牧場である。
1888年に現在の町の場所は測量され、スチュアートの町が1889年に建設された。1902年のアールタンガにおける金の発見によって、多くの鉱夫が流入したが、町そのものは電報局の施設よりも小さいままであった。1927年でも人口50人に達しなかった。アフガニスタン人のラクダ隊が、ウードナダッタOodnadattaとの間の輸送を担っていた。特急「ガン」号は彼らに由来する。刑務所(ナショナル・トラスト指定)が1907年から翌年にかけて建設され、最初の学校は1914年に設立された。1927年から31年までの間、この町は中央オーストラリアの行政の本拠地であった。1926年から27年の間に、行政官の官邸が建てられ、1929年のウードナダッタまでの鉄道の開通にともない、町は発展し始めた。
オーストラリア・インランド・ミッションAustralia Inland Missionの最初のナースが1916年にこの町に到着し、1926年にはアデレイド・ハウス看護寄宿寮Adelaide House nursing hostelが作られた。航空医療サービスは1928年に設立された。ジョン・フリン師は、オーストラリア・インランド・ミッションAIMの最高責任者として長年この町に滞在した。
第2次世界大戦中には軍事基地が置かれ、連合国軍司令官ダグラス・マッカーサー将軍も滞在した。ダーウィンに続く道路は、戦略ルートとして1943年に舗装された。戦後は、観光業が発展した。1957年から62年には、事実上ほとんど降水が記録されておらず、この地域の牛の数は353,000頭から177,000頭にまで減少した。1962年にはパイン・ギャップPine Gapに、アメリカとの共同による防衛と宇宙研究のための施設が建てられた。町に永住しているアボリジナル人口は多く、彼らのための寄宿大学もある。しかし、アボリジナルと非アボリジナルの人種的な緊張は高い状態にある。
藤村あい・藤川隆男0503