Albany
アルバニー
西オーストラリアの南西海岸部、パースの南東409キロに位置する。
人口:20,495(1996)、16,316(1986)、15,222(1981)、10,526(1961)、3,680(1901)、173(1848)。
地名はヨーク及びアルバニー公であった王弟フレデリックのアルバニーに由来する。かつては先住民のMinangの居住地であった。記録上ヨーロッパ人が最初にこの地に訪れたのは1627年である。1791年にはジョージ・ヴァンクーヴァーが探検した。ブルニー・ドントラキャストウはラ・ペルーズを探して1792年にこの地を訪れた。その後も1800年から20年代まで断続的にヨーロッパ人が訪れている。この地をヨーロッパ人が占領したのは1826年、エドモンド・ロッキャーEdmund Lockyerが、流刑植民地建設のためにシドニーから一団を引き連れてきたときである。ヨーク公にちなんでロッキャーは町をフレデリックス・タウンFredericks Townと命名した。農場などが建設されたが、西オーストラリア入植の中心地となることはなかった。流刑植民地は1831年に引き払われ、西オーストラリア(スワン・リヴァー)植民地に統合された。同年町は測量され、翌年からは公式にアルバニーを名乗った。この入植地は、一般にキング・ジョージ・サウンドKing George Soundと呼ばれており、公式名採用後もこの名で呼ばれることが多かった。創立当初には羊毛ブームのために順調に発展した。1830年代に最初の桟橋が造られると、港は東部植民地への移民船の寄港地となった。しかし、農業は発展しなかった。当初の輸出品はアザラシ皮だったが、やがて鯨製品にとって代わられた。最初はアメリカ、フランスやオーストラリア東部から捕鯨船が来ていたが、1840年代の半ばから地元でも捕鯨を行うようになった。中国へのビャクダンの輸出の比重が増したのは1840年代後半であり、市場が飽和状態になるまで続いた。学校が開設されたのが1848年、英国国教会が建設されたのが1841-48年である。当初は良好だったヨーロッパ人とアボリジナルの関係も1840年代には悪化して、アルコールと性病がアボリジナルの間に多くの問題を引き起こした。
アルバニーは孤立して、パースともほとんど交流がなかった。流刑開始にともない刑務所が1851年に建設された。1850年代初頭、アルバニーは石炭補給港であった。1853年には囚人労働によりパースとアルバニーを結ぶ道路が完成した。地方議会が設立されたのは1871年、市長職とタウンの議会ができたのは1885年である。『アルバニー・メイル』Albany Mail新聞は1883年に創刊された。パースとの電報は1872年に開通した。タウン・ホールが開設されたのは1888年である。この頃パース政府から無視されがちだったので、西オーストラリアから分離しようとする動きがあった。鉄道は1889年に開通した。ガスの供給は1891年に始まった。1890年代のゴールドラッシュでは金鉱地帯へ人や物資を供給した。1890年代には屠殺冷凍工場、鉄道関連作業所などが発達する一方、町は保養地としても成長した。しかし港が改良されたにもかかわらず、パースの外港としてフリーマントルに新しい港が建設されたので、港湾としては重要性を失っていく。港としての重要性を失うにつれて、ますます保養地として発展した。1947年アルバニー地域発展委員会が設立され、新しい農業の提案、復員兵の受け入れなどを行った。その後水産物加工や観光業が発展し、港湾の整備も進んでいる。アルバニーは1950-60年代にかけてオーストラリア唯一の捕鯨基地だった。しかし1978年に連邦政府の委員会が捕鯨中止を打ち出してからは閉鎖された。
町は海抜69メートルに位置し、冬の平均気温は7.4-15.7℃、夏は13.3-25.8℃、年間の平均降水量は815ミリである。羊毛生産、ラム肉、生活雑貨製造業とともに羊毛紡績業、食品加工、機械農業といった第2次産業が盛んである。町の名所旧跡にはレジデンシー美術館(1852-53建設)、裁判所(1896)、旧郵便局(1869)、聖ジョン福音派教会(1841-8)がある。
左近幸村1001